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三国志の名賦「七歩の詩」と「銅雀台の賦」は、曹植の作品ではなかったのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第108回

 

■転封の繰り返しで何もできずに終わる

父・曹操(中央)、兄・曹丕(右)とともに「三曹」として評価される曹植の像。河南省亳州にて。(撮影/上永哲矢)

 しかし、この兄弟の仲も曹操の後継者問題が浮上してきたあたりからヒビが入る。群臣らは曹丕派と曹植派に分かれ、権益をめぐる跡目争いを始めた。上杉景勝と景虎による「御館(おたて)の乱」、アレクサンダー大王の死に伴うディアドコイ戦争など、後継者問題による泥沼抗争は古今東西に通ずる。

 

 曹丕派があげつらったのは曹植の素行。曹植は酒好きで細かいことを気にしない気ままな性格だった。たとえば、道を急ぐあまり曹操でさえも通らない皇帝(献帝)専用の通路を馬車で通ってしまったことがあった。酒に酔って曹操の出陣命令に応じられないこともあった。

 

 一方の曹丕は人目を意識して品行方正に振舞ったため、宮廷の側近や女性たちの多くは曹丕に肩入れし、曹植の悪評はさらに広まってしまったという。

 

 こうしたことが重なって、曹操は曹植を寵愛はしたが、世継ぎには曹丕を指名した。何より年功の序列を無視できなかった事情もあろう。220年に曹操が亡くなると曹丕は反乱分子の排除にかかる。それは弟とて例外ではない、というより、弟とその一派が最大の対象であった。

 

 221年、曹植は安郷侯に転封されたのを皮切りに、1~2年に一度、転封命令が下るということが繰り替えされた。待遇だけは年々上がるが護衛の兵は減らされ、地域に腰を据える暇もなく、その地力を削がれていったのだ。物語のように曹丕の目の前に出て詩をつくるような機会さえなかった。

 

 曹植は諦めず「私を用いてください」と切実に訴える手紙を何度も書き送った。何も為せず朽ち果てていく身の上を嘆く無念さに溢れる文面は人の胸を打つ。だが曹丕はその願いを聞き入れないまま、22640歳で急死する。曹操の死からわずか6年後だった。

 

 次代の曹叡(そうえい)政権でも曹植の出番はなかった。唯一、彼を慰めてくれるのは母・卞(べん)夫人ぐらいと思われたが、その母も230年に亡くなり、心の支えをなくす。その2年後の232年、曹植は41歳で没した。

 

「願わくば林の中の草となり 秋に野火で焼かれてしまいたい ただ根っ子とつながっていたい」と詠んだ曹植。自身を根(一族)から離れた「蓬」(よもぎ)の葉に例えている。

 

 結局、なぜ彼は「飼い殺し」にされたのか。それは、やはり詩才ゆえといえるだろう。上記の蓬のほかにも多くの詩があるが、その詩風は躍動的でスケールの大きい表現が特徴的だ。

 

「長驅して匈奴(きょうど)を踏み散らし、左顧して鮮卑(せんぴ)を凌(しの)がん、戦場に身を置いたからには、命のことなどは惜しむまい」とは『白馬篇』の一節。恐ろしいほどに勇壮で見事な詩に魅入られる人は多かったことだろう。自身も詩人であった曹丕にとって、これほどの才を持つ者が身近にいるだけで、どれほど恐ろしかったか。

 

 しかし、わずかな曹丕の良心は、曹植の作品の多くを抹殺せず残した。それらが、こうして語り継がれることがせめてもの彼への手向けになるだろうか。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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